旧川原町郵便局舎は、「タイル張りの平滑な壁面や幾何学的な装飾に時代の特徴がよく伺える。幅約6.5mのファサードの中に多彩な要素をちりばめ、それでいて格調を失わない。内部は1階前面の営業室だけが洋風で、他の部屋は和風となる。伝統的な町家の中に洋風意匠が拡がっていく過程を示すものとして貴重である」(『近代化遺産マップ』NPO法人スミス会議)。
高﨑家住宅の建築年代は江戸後期と考えられている。文書も残っており「高﨑家文書」として彦根城博物館に保管されている。江戸時代に表具屋を営んでいたという。建物は、木造2階建ての伝統的な町家である。昭和9年(1934)に郵便局舎への転用にともない、建物の前面が洋風外観に改造され、2階にも天井高の高い居室が増築された。開業は大正14年(1925)、廃業は昭和11年(1936)である。
通りから見ると、建物は町家部分と局舎部分とに分かれている。切妻造り・桟瓦葺き・平入りの町家を改造し、郵便局舎を附設しているため、向かって右側にはもともとの町家部分が残されているのが判る。洋風に設えてあるのは局舎部分のみであり、建物内は奥行きが深く、2列6室の居室が続いている。
また、高﨑家住宅の敷地は奥に向かうにつれて広がる台形であり、この台形の敷地いっぱいに建物が建てられている。一般的に台形状の歪みは、トオリニワ(通り庭:表から裏口まで続く土間のこと)を設けて部屋を直角に保つのが一般的だが、高﨑家住宅はトオリニワの代わりに、1階、2階とも板の間や床の間、押し入れや仏間の収納スペースが台形になっている。表に近い部屋ほど収納の奥行きが狭くなっているのである。

昭和初期の彦根は新しい意匠を纏った建築が相次いだ時代である。昭和2年(1927)彦根町立図書館、昭和3年(1928)彦根町役場、昭和7年(1932)彦根測候所、昭和8年(1933)彦根町立病院、そしてこの年、マルビシ百貨店が創業している。高﨑家住宅もまた、日常が西洋化していく時代の空気のなかで、既存のスペースを改造しながら洋風の意匠を巧みに取り入れていった近代化を物語る建物なのである。
昨年、旧川原町郵便局舎(高﨑家住宅主屋)は、江戸期の特徴的な町家に郵便局の機能を付加した貴重な建物として、国指定の登録有形文化財となった。
建造物・工芸品・彫刻・書跡・典籍・古文書・考古資料・歴史資料などの有形の文化的所産で、歴史上・芸術上・学術上価値の高いものを総称して「有形文化財」と呼ぶ。このうち、建造物について国が指定する国宝・重要文化財(建造物)と国が登録する登録有形文化財(建造物)がある。そして、登録有形文化財とは、近年の国土開発や都市計画の進展、生活様式の変化等により、消滅の危機に晒されている近代等の文化財建造物を後世に幅広く継承していくために文化財登録原簿に登録されたものをいう。
現在、旧川原町郵便局舎は「逓信舍」と名前を改め、「寺子屋力石」「戦國丸」を運営する「LLP(有限責任事業組合)ひこね街の駅」により、「情報」をテーマとした第3の街の駅として、新たな賑わいを呼び込む取り組みが進められている。1階の旧郵便局執務室はカフェ、2階部分はギャラリーやオフィス、民間のフィルムコミッションを目指す「彦根を映画で盛り上げる会」が事務局を構える予定である。既に建物の利活用は始まっており、滋賀県立大学生が建物の改装や耐震工事を行い、聖泉大学生がインターネットラジオ放送を、滋賀大学生はデジタル・アーカイブ事業や賑わいを創出するためのソフト事業に取り組んでいる。

LLPひこね街の駅は、逓信舍を「花しょうぶ通り商店街一帯は、国の重要伝統的建造物群保存地区を目指した調査が行われ、今回の国登録文化財を再利用する施設を、まちのシンボルに位置づけるとしている」(京都新聞2012年1月9日)。
彦根の近代化遺産である旧川原町郵便局舎は幸いにも国指定の登録有形文化財となり、更にはまちの人々に望まれ「逓信舍」として利活用されようとしている。しかし近代化遺産は何時失われても不思議ではない……。既に、数年前まで存在していた近江絹糸工場群や鐘紡工場群、和光会館などはその姿を消してしまった。では何故、利活用しながら文化財建造物を後世に継承しようとするのか……。
近代化遺産は、近代化を物語る記憶装置のようなものであり、建物の価値だけでなく、その時代を生きた人々の営みが背景にある。近代化遺産の保存は建物を継承するだけではなく、当時の人々の営みも含めて後世に語り継ぐためにあるのではないだろうか。