スミス記念堂

スミス記念堂とは?

スミス記念堂は、昭和6年に日本聖公会彦根聖愛教会のアメリカ人牧師で、彦根高等商業学校(現・滋賀大学経済学部)の英語教師でもあったパーシー・アルメリン・スミス氏が両親を記念し、感謝する思いと日米両国の人々の基督教を通じた交流を願って多額の自己資金を投じ、日米双方からの醵金により、彦根城の旧・中濠端(現・外濠)に建設された和風礼拝堂です。
この建物は、彦根の宮大工である宮川庄助氏の協力で施工されました。建物の花頭窓・唐破風・屋根などは、借景となっている彦根城をモチーフにしたものであり、「和」を基調としつつも、東西の様式が渾然一体となった独特の雰囲気を醸し出しています。正面の観音開きの扉には、葡萄の蔓が巻き付いた十字架や松竹梅の文様が彫られており、釘隠し・欄干・瓦など、純日本風建築の中に西洋の意匠が違和感なく溶け込んでいます。
平成8年、都市計画道路の拡幅工事により取り壊し寸前であったこの建造物は、移築活用を願う「スミス記念礼拝堂を彦根に保存する会」により解体保存され、「特定非営利活動法人スミス会議」(平成15年6月設立)へと思いが引き継がれました。現在のスミス記念堂は、彦根の各界各層有志の多額の醵金と、彦根市の協力により、平成18年12月7日に再築されたものです。

所在地と開館時間

所在地

〒522-0064 滋賀県彦根市本町三丁目

開館

現在、開館業務はしておりません。
※見学に関してはご相談ください。ご希望に添えない場合もございますので、あらかじめご了承ください。
お問い合わせ 0749-24-8781

ご利用にあたって

スミス記念堂は彦根の近代化遺産です。私たちはこの大切な文化財を、新しいツーリズムの場として、多 くの方のご利用を願うものです。
スミス記念堂の利用にあたっては、下記の条件を守っていただくことが必要です。
なお、堂内にはお手洗いはありませんので、駐車場横倉庫のお手洗いをご利用ください。

利用申し込み

  1. お電話にて空き状況をご確認ください。(tel.0749-24-8781・受付時間:午前10時〜午後5時 )
    その際、目的及び内容についてうかがい、ご利用いただけるかご返答いたします。
  2. ご利用いただける場合は、所定の申込書に必要事項を記入し、事務局までご提出ください。
  3. 同一団体による利用については、13日を超えて(翌々週の同曜日)からお申込の受付をさせていただきます。

利用当日

  1. 当日は、管理者の許可を得てから利用を開始してください。
  2. 利用時間を厳守してください。利用時間は午前10時から午後4時までとします。なお、利用時間には、搬入・準備・後片付け・搬出を含めます。
  3. この建物は、登録有形文化財(建造物)です。記念堂内外においては、火気厳禁、壁・柱・ガラス等に、ポスター・チラシなどの掲示してはなりません。また、釘類・押しピン・セロハンテープなどの使用も禁止いたします。
  4. 利用終了時には、利用前の原状に復してください。
  5. 飲食は禁止いたしますが、ペットボトルによって提供される飲み物は認めます。
  6. ゴミ等は利用者自身が持ち帰ってください。
  7. 利用終了後は、管理者の確認を受けてください。

賠償等

  1. 建物・設備・備品を損傷したり、滅失した場合には、その程度において賠償していただきます。

貸し館利用料

展示・ホール貸しについては、以下の金額とします。
利用料は、事前または当日にお支払いください。

非会員 1,500円 / 1時間(10:00〜16:00 夜間使用は原則禁止)
会員1,000円 / 時間(空調含む)

利用要綱・利用申込書(PDF)

見学・視察料金

記念堂見学と解説(45分) 500円 / 1人
(近代化遺産 map・パンフレット配布)
周辺の近代化遺産の見学と解説を伴う視察対応2,000円 / 1人

P. A. スミス氏について

1876
明治9年
8月8日

イリノイ州のデイクソンに生れる

洗錬された教養の高い家柄だったが、けっして裕福ではなかった。 父は33年間デイクソン高等學校の校長を勤めあげた人物で、厳格であり誰からも深く尊敬された教育界の指導者だった。
彼の母はすべての人々から深く愛せられ尊敬された。彼女は働らき者で、先妻の息子と自分の子供を育てながら家庭をきり廻していた。時間をみつけては種々の雑誌に寄稿し、その原稿料で家族が必要とする読み物を買うという風であった。
スミス氏は五歳で學校へ通い始め、はにかみ屋で、不器用で高等學校を卒業するまで成績はあまり芳しいものではなかった。
彼は家では農場を手伝わなければならず、他の子供達とスポーツをしたりゲームをしたりする時間もなかったし、またそういう気持ちにもなかったようである。

1892
明治26年

16歳、高校卒業

卒業後2年程、彼は農場で働き、ともかくその經營をやってのけ、近く州立大学の農科に入学。

1894
明治28年

農場で働く計画を断念

スミス氏の生涯を大きく転換させる事件がおこる。
或日、彼が一頭の馬を世話をしていると、突然他の二匹の馬が走り出し、スミスさんの頭皮と片方の耳が大きくさけ、左手の靱帶損傷する事故だった。幸い、頭皮と耳は元通りになったが、左手は、もはや生涯重勞働に堪えるようには回復しなかった……。

1895
明治29年

リバサイド・スクールの教師となる

両親はスミス氏と一緒に暮らしたいと考え、デイクソンの近くの小さい一教室だけの学校(リバサイド・スクール。スクール・バスの制度が発達した今日では、こういう不完全な学校はほとんどなくなったが、極最近まで至るところにあった)に、職を見つけた。
この学校には18〜20人の様々な年齢の子供達がいて、中には相当年配の女の子や、十六歳にもなる荒つぽい少年等がたが、大概は取扱い易い子供達で、スミス氏の終生の友人となったのである。

1896
明治30年

田舎の学校へ移る

給料は高くはなったが、あまり楽しいとは云えない田舎の学校へ移る。大学へ入学する計画をたて、そのために貯金するお金が必要となったからである。

9月

イリノイ州立大学に入学、同時に大学YMCAに加入

大学二年生の時、父親が重病にかかり、母親もまた病気だったので、家へ呼び戻され、高等學校の代理校長となった。

1898

父親永眠、農場は閉鎖

スミス氏は一学期を休んだだけで、大学へ復帰。

1899
明治33年

YMCAの会計に選任

YMCA 夏期キャンプに出席

ゼネバ湖(北米、イリノイ州とウイスコンシン州の境にある湖)のYMCA 夏期キャンプに出席。YMCA有数の指導者となった。

12月

クリスマスに母親永眠

1900
明治34年
4月

大学YMCA会長に選任される

この年、YMCAと連合で種々の会合が持たれたが当時のYWCAの会長は他ならぬインネッド・ドレーパー嬢であり、スミス氏は未来の妻とめぐり合ったのである。

決意表明

ゼネバ湖に於ける第2回YMCAの夏期キャンプで、海外伝導事業に生涯を捧げると云う固い決心を表明。

1901
明治35年
6月

大学卒業

9月

大学教授となる

イリノイ大学教授陣に加わり、数学の教師として、100〜120人の一年生に代数・三角・解析等を教えた。

1902
明治36年
2月2日

インネッド・ドレーパー嬢と正式に婚約

彼女は1902年の6月来日。

「リバサイド農場」売却

大学の学費のためになされた借金を返済。
アメリカ聖公會ミッションのマキム主教に手紙を書き、日本での伝導者としての可能性を問い合わせ、YMCAが官立学校の教師を募集していることを知る。

1903
明治37年
2月27日

28歳、イリノイ大学の地位を棄て日本へ向って出帆

信濃丸で横浜に到着。

4月10日

広島高等師範学校へ英語教授として赴任

10月20日

横浜でインネッド・ドレーパー嬢と結婚

スミス氏は広島高等師範学校の英語教師として、学生が最も必要としていることは何であるかを見出そうとし、またその必要を満たすために最善の努力を傾けた。雑誌「英語教師の友」を発行、これは官公立学校その他学校の英語教師のための雑誌であった。

1908
明治41年
12月

第1回の休暇

帰国してイリノイ大學で研究を続ける。

1909
明治42年
9月

広島へ帰ってくる

スミス夫人も附屬中学で英語を教える始める。
スミス氏は、「西洋物語」という学生用の英作文の書物を著す。日本に於ける最善の英語教師の一人として数えられるようになる。

1911
明治44年
4月10日

東京築地教會の禮拜に出席

在日アメリカ聖公會ミッションに加わることを決心。

1912
大正元年
4月1日

在日アメリカ・ミッションの京都教區の一員となる

4月

三重県津市に赴任

1913
大正2年

教會附屬の夜學校の責任者となり、夫人は幼稚園の園長となる

福井・金沢・京都などで布教活動

以上、「書籍スミス先生の思い出」より抜粋 スミスさんの傳記 ミセス・インネッド・スミス

1925
昭和元年

彦根高商英語教師を務めながら布教活動や文化活動に従事

1931
昭和6年

両親の慰霊のため、キリスト教の普遍的精神と彦根の風土と日本の精神を調和させた礼拝堂の建築を祈願

日米の多くの善意に支えられ実行に移した。

1939
昭和14年

健康悪化のためアメリカへ帰国

1945
昭和20年

オハイオ州で死去

彦根を愛したスミス氏の遺骨と遺髪は彦根の教会に納められている。

スミス氏13歳
母、先生、兄、妹、父
1889年(明治22年)

イリノイ州立大学卒業
1901年(明治35年)

司祭服のスミス氏
1922年(大正11年)

広島時代

新婚の頃
1903年(明治37年)

津時代

晩年のスミス氏
1935年(昭和10年)