夏目雅子、仲代達矢、岩下志麻、仙道敦子の出演する「鬼龍院花子の生涯」は昭和57年(1982)の五社英雄監督作品である。舞台は大正4年(1915)の土佐。鬼政と呼ばれた鬼龍院政五郎の生涯を描いた物語だ。鬼政が乗った人力車が堀端を走るオープニングシーン…。楽々園から玄宮園の内堀沿い、そして、スミス記念堂のある現在の外堀沿いを走る人力車をカメラが追いかけ、大正4年の土佐の風景として映し出されている。その他、「鬼龍院花子の生涯」には、埋木舎・滋賀大学講堂、金亀公園から彦根城山崎郭を望む石垣横には東洋繊維の工場が映っている。当時の彦根を知る人には懐かしい1980年代前半の風景である。
また、昭和38年(1963)の「青い山脈」はオール彦根ロケの映画である。主演は吉永小百合。彦根市立西中学校前の石垣のところから吉永小百合のバックにスミス記念堂が映っている。
スミス記念堂は、キリスト教日本聖公会彦根聖愛教会のアメリカ人牧師で彦根高等商業学校(現滋賀大学経済学部)の英語教師パーシー・アルメリン・スミス氏(1876年生まれ)が、両親への感謝の思いと両国民の平和交流を願い、昭和6年(1931)、地元の大工宮川庄助氏と協力し、日米双方から多大な醵金を集め、建設したものだ。
花頭窓・唐破風・屋根などは、借景となっている彦根城をモチーフにしたものであり、「和」を基調としつつ、東西の様式が渾然一体となった独特の雰囲気を醸し出している。正面の観音開きの扉には、葡萄の蔓が巻き付いた十字架や松竹梅の文様が彫られており、釘隠し・欄干・瓦など、純日本風建築の中に西洋の意匠が違和感なく溶け込んでいる。
『キリスト教の教会堂が和風建築を採用した事例の多くは、伝道を開始した幕末・明治初期に既存の日本家屋を借り受けたり、暫定的に日本家屋を建てて仮教会堂とした場合であって、いずれも積極的に和風意匠を採用したわけではない。(中略)各地で本格的に建設された教会堂のほとんどは、ロマネスクやゴシック様式を基調とした洋風建築である』(『昭和期における日本聖公会の和風教会堂建築について 日本聖公会の建築史的研究』)と記されるように、和風のキリスト教教会建築は全国でも数例しかなく極めて珍しい存在だった。

聖公会の彦根伝道は、明治13年(1880)に始まる。選任牧師が常駐したが仮教会を転々としており、大正11年(1922)ようやく彦根市城町に土地を購入した。スミス氏が着任したのは大正15年(1926)のことであり、聖堂の建設準備を始め、設計もスミス氏が行ったとされている。スミス氏の両親を記念して建てられ「須美壽記念禮拜堂」と呼ばれた。
『施主である外国人宣教師の強い意志で和風意匠が採用された。それは単なる日本趣味だけでなく、日本人にとってのキリスト教という問題に対する彼らの解答であり理想であった。彼らは企画者・施主として、始終工事に立ち会い、折に触れ施工者に設計意図を伝えて建設が進められた』(松波秀子)。
スミス氏は常に式服と一緒に大工道具を携帯していたというほどの建築好きであったといわれる。スミス記念堂は、スミス氏の20年来あたためてきた考えの結晶であり、キリスト教は外国の宗教であるとみなされている一般的な考えを緩和するために、幾分でも貢献したいと願っていたという。
宮川庄助氏(1897年生まれ)は、五個荘町(現東近江市)で修業の後朝鮮へ渡り、大正8年(1919)彦根に戻った。義父が請け負った彦根教会の会館建設に参加した際にスミス氏と出会い聖公会信徒となった。以来、スミス氏の赴任した各教会をはじめ聖公会教徒教区内の十数余りの教会の新築増改築を手掛けている。尚、庄助氏は義父から学んだ新工法(ツーバイフォー)を用い、関東大震災の復興に尽力した人物である。
さて、二つの映画に映っていたスミス記念堂の風景は既に失われている。平成8年(1996)9月~同9年(1997)1月の間に行われた都市計画道路の拡幅工事により取り壊しが決定されたのだ。
現在の位置に移築されたスミス記念堂の前に建つ記念碑は次のように伝えている。

『(前略)この記念堂は、スミス先生の御両親を記念する心に育まれ、基督教を通じた日本と西洋の両文化の相互尊敬と国際交流という想いによって建てられたものである。私たちは、平成8年(1996)道路拡幅工事により失われる寸前にあった スミス記念堂 を解体保存し、その再建運動に従事してきた。それは、御両親を敬愛するスミス先生の心と、日本の伝統的寺社建築様式を採り入れた国際交流の象徴ともいうべきスミス記念堂が、将来にわたっても彦根の地に存続し得るのか否かを試す長い年月でもあった。幸い、多くの彦根市民の御努力と彦根市の深い御理解により、彦根城を仰ぎ見るこの地がスミス記念堂再建の地として提供された。私たちは、この地をスミス記念堂の最終的な安住の地と定め、市民による彦根のまちづくりの拠点と位置づけ再建した。スミス記念堂再建の重要性は、その文化財的価値の高さは言うまでもなく、この建物に結晶したさまざまな精神にある。それは、人間として決して忘れてはならない普遍的な徳目や、和 洋両文化を相互に敬愛するこころであり、彦根のまちづくりとともに次の世代へと確実に引き継がれるべきものである。平成19年3月25日 特定非営利活動法人 スミス会議』
スミス記念堂の再築は、大学人・市民等によって「スミス記念堂を彦根に保存する会」結成に始まる10年に及ぶ市民運動であり、平成19年(2007)、記念堂は国の登録有形文化財として登録され、NPO法人スミス会議により維持管理、運営が成されている。その経緯はまた別の機会に記すことにする。