2011年2月テレビ朝日系列で放映されたドラマ『遺恨あり 明治十三年 最後の仇討』は、吉村昭の短編小説集『敵討』所収の『最後の仇討』が原作。明治政府が発布した「仇討禁止令」から7年後の明治13年(1880)、信念を曲げずに仇討を果たした臼井六郎を描いている。仇討か殺人か! 東京上等裁判所の法廷やクライマックスのシーンの撮影が滋賀大学経済学部講堂で行われたのは記憶に新しい。2013年4月、『偉大なるしゅららぼん』(万城目学著)が映画化され、滋賀大学講堂でのロケが行われた。旧彦根高等商業学校時代の建物である。日本の近代化の様子を留め、アカデミックな空気を纏っているのだろう。かつて、弁論大会や映画の上映会、ダンスパーティーが行われ、昭和12年(1937)初めて来日したヘレン=ケラーが講演したのも講堂であった。

滋賀大学経済学部の前身は旧彦根高等商業学校である。全国9番目の官立高等商業学校として発足した。建学の精神は「士魂商才」。昭和24年(1949)新制大学経済学部の教育理念として現在まで受け継がれている。
「士魂商才」は福沢諭吉が提唱し明治実業界の第一人者渋沢栄一が実践した日本資本主義を牽引した精神だ。「利よりも義」、私の立場よりも公の立場にしたがって国家を重んじる「士魂」。富国強兵を支える商工業の振興のために創意・工夫・発明によって富を創り出す「商才」である。
旧彦根高等商業学校中村健一郎初代校長は「如才ない商人の育成ではなく、井伊大老のような上品優雅で視野の広い教養人」の育成、石川興二教授は「資本主義的利己的商人ではなくして、真に社会的精神生活の経済的基礎を与ふるに進んで努力すべき社会奉仕的商人」の養成としている。日本の近代化の過程で「士魂商才」という言葉に新しい意味を与え、現在、近江商人の地域社会への奉仕 ・貢献と、幕末期の彦根藩が示した視野の開明性 ・先見性、高 い人格と豊かな教養を備えた専門職業人の養成の場として、滋賀大学経済学部は彦根にある。

第一回入学式は大正12年(1923)4月20日、校舎の完成を待って大正14年(1925)10月30日、開校式が行われた。『この日の開校式には岡田良平文部大臣をはじめ、貴衆両院議員・県知事や県内の郡市町村長ら500名が参列し、夜には同校職員や生徒、彦根青年団員らによる祝賀の提灯行列が催された。全町を挙げて祝われたことからも、この学校に対する彦根の人々の期待感を見てとることができる』(新修彦根市史第三巻)。大正13年(1924)彦根城外堀の一部を埋め立て竣工した講堂は彦根の人々にとってもシンボルであったに違いない。
建物は、大正時代における旧専門学校講堂の典型的な建築様式で、昭和18年(1943)に近江八幡の桟瓦に葺きかえられたが、現在でもほとんど建設時の姿を維持する貴重な近代化遺産である。平成13年(2001)国の登録有形文化財に指定されている。
文化庁の国指定文化財等データベースには『構造:木造2階建、瓦葺、建築面積679平方メートル。彦根城西部の堀に接する滋賀大学敷地内にある。木造2階建の講堂に、平屋建の大教室が接続し、外装ほぼ全体を下見板貼とする。講堂妻面に柱型付玄関を設け、上下階で連続性をもつ矩形窓を側面に配し、半円形屋根窓、瀟洒な小塔を冠す。文部省建築課の設計』と解説され、講堂と大教室が一体となった建物であること、玄関と窓、そして小塔に特徴があることが判る。小塔は、屋根上にあるドーム型の換気塔(地上約16.7m)、半円形屋根窓はドーマー窓型換気口である。
外観だけでなく講堂内部は開学当時の様子をそのまま留めている。大正ガラス越しに仰ぎ見る彦根城天守はひと際美しく、変わらぬ植栽を通して差し込む光は何故かノスタルジーに満ちている。居心地の悪い長椅子に長時間座っていることができるのは、講堂が生み出す不確かな幻影を見るからだろう。