「隧道」とは、トンネルの古い呼び方である。『新修彦根市史第三巻』、535頁に「佐和山トンネルの開通」として記されている。
『彦根町と旧中山道沿いの鳥居本村とを結ぶ朝鮮人街道は、明治時代の早い時期に仮定県道に編入された主要道路であったが、佐和山付近には「切り通し」と呼ばれる急勾配が存在し、馬車や荷車による輸送上の難所となっていた。そのため、トンネルを掘削して勾配を緩和するという構想が古くからあったが、その建設費用が膨大であることから、たびたび頓挫してきた。』
県道名の朝鮮人街道は、大正9年(1920)に旧道路法が施行され「大津福井線」という名に変わっている。経費は、大正5年(1916)に鳥居本出身の寺村庄三郎が1万円の寄付を申し出たことで急展開し、県営工事として施工されることになった。竣工は大正13年(1924)、延長約160メートル、幅4メートル、高さ7.5メートル。昭和30年(1955)新しいトンネルができ廃道となったが、隧道は今も存在している。
今回、佐和山隧道を調べ始めて、村田鶴という人物の設計であることが判った。滋賀県の数々の名隧道を設計し、『”道 を拓いた偉人伝』(永冨謙著・イカロス出版・2011年)では、村田鶴を5人の偉人のひとりとして取り上げている。また、同書において佐和山隧道は『近代土木遺産Cランク(国登録有形文化財や区町村指定の文化財に相当するもの)に認定されている』と記している。確かに、『滋賀県の近代化遺産』にも、横山隧道(長浜市鳥羽上町 / 米原市菅江・大正12年竣工)、観音坂隧道(長浜市石田町 / 米原市朝日・昭和8年竣工)、谷坂隧道(長浜市小室町 / 郷野町・昭和10年竣工)に、設計者として村田鶴の名があった。しかし、佐和山隧道も仏生山トンネルと同じく『滋賀県の近代化遺産ー滋賀県近代化遺産(建造物等)総合調査報告書ー』に記されていない。
彦根にはまだまだ多くの未発掘近代化遺産が、普段何気なく見ている風景の中に存在するが、それらは、何時、失われてもおかしくない、危うい代物でもある。