金亀会館(彦根市中央町3番46号)は、本堂とその背後に接して建てられた書院からなり、藩校弘道館の講堂を大正12年(1923)に彦根城第二郭(現彦根市立西中学校グランド)から移築したもので、西本願寺の教堂として使用されてきた。彦根藩校の遺構として唯一現存する近代化遺産である。
江戸時代初期に創設された藩校もあるが、享保期(1716~1735)から寛政期(1789~1801)が全国的に最も藩校開設の機運が盛り上がった時代であった。幕藩体制がゆらぎ、「享保の改革」(徳川吉宗が主導した幕政改革)「寛政の改革」(松平定信が主導した幕政改革)が実施されるなか、諸藩は人材を育成し、教育の力で藩制改革を成し遂げようとした。
井伊家当主11代井伊直中の頃、藩内では藩校を創設して有能な人材を広く養成するのか、藩士教育は私塾・家塾にまかせ、従来のように少数でも傑出した人物を育てるかという両論があったが、寛政6年(1794)、藩校設立が決議された。同10年に学舎が完成し、翌11年7月29日に藩校設立の趣旨が示され、藩校「稽古館」として開校する。家中知行取衆の家督及び部屋住みで15歳から30歳までの者は必ず藩校に出席することが義務づけられた(扶持米取・足軽などの従者は入学できなかった)。あくまでも藩士・子弟の教育機関であり、支配者としての武士を鍛錬し養成する公的機関だったのである。創設にあたっては、萩藩毛利家の明倫館や熊本藩細川家の時習館など諸藩の学校の調査が行われ、主として時習館の制に倣って彦根藩校は起工されたという。
天保元年(1830)、井伊家当主12代井伊直亮は稽古館の名称を弘道館と改めた。『論語』の「子曰、人能弘道、非道弘人也」(人能く道を弘む、道人を弘むに非ず)からとったものである。弘道館には講堂のほかにも剣術・槍術・弓術・馬術などを習う施設や、諸学を学ぶ学寮があり、敷地約7800平方メートル、建坪約2500平方メートルにおよぶ大規模なものだった。テニスのシングルス用コートを約260平方メートルとすると敷地は30面分の広さである。

ところで天保13年(1842)中川禄郎が直亮により儒学の教官として登用されている。稽古館和学方教授の小原君雄の長男として生まれた禄郎は、現・彦根市薩摩町の善照寺の寺侍中川勘解由の養子となり諸学を学んだ。長崎で蘭学者と交わり西洋事情にも通じていた。井伊家当主13代井伊直弼は、藩校で学んだが禄郎の講義を聴くことはなかった。しかし、尾末屋敷(埋木舎)の時代から禄郎とは交流があり、彦根藩の世嗣として江戸出府後も、諸事頼りにしていたという。
直弼もまた、藩主の座につくと、弘道館教育を藩政のかなめとして重視し藩校改革に努め一層の教育振興をはかった一人である。
明治維新後は足軽や農民・町民の子弟も入学が許されるようになり、明治2年(1869)に校名も文武館と改められたが、明治5年(1872)藩立学校廃止令により廃校となった。儒学者龍草廬、中川禄郎、国学者長野義言など優れた教授陣を輩した70年の藩校としての歴史が終る。
明治8年(1875)、弘道館の建物及び付属地は、浄土真宗本願寺派の寺院によって創設された金亀教校(仏教教育機関)として買収され、翌9年開校式が行われた。その後金亀教校は、金亀仏教中学、第三仏教中学と改称し、明治42年(1909)私立平安中学校として京都に移転。現在の龍谷大学付属平安中学校・高等学校の前身である。
さて、彦根藩校の歴史を物語る遺産として外馬場公園から金亀会館を仰ぎ見るとき、藩校の学風(気風)に思い至ることはできないだろうか……。

例えば藩校創設当時、徳川家康以来儒家思想は朱子学であったにも関わらず、彦根藩は朱子学に批判的であった荻生徂徠に始まる徂徠学(古文辞学派)が発展した土地として知られている。中国の古典を成立時の意味で解釈しようとする立場である。直弼もまた、青年期に学問をする中で、原点は何なのかを遡り考える資質を身につけている。特に茶の湯の場において、当時の乱れた世間茶というものを否定し、原点としての茶は何なのかということを追求している。後の世の解釈ではなく原点に立ち返り真理を求めること……。彦根の気風はそのあたりにあるのではないだろうか。
金亀会館は平成19年(2007)に彦根市指定文化財に指定。平成21年(2009)に市に寄付され、現在、歴史的風致形成建造物として、「歴史まちづくり法」に基づく整備が進んでいる。