滋賀県における気象観測は、明治26年(1893)犬上郡彦根町大字丸野木第54番地(現彦根市城町2丁目5番25号)で滋賀県立彦根測候所が1日6回の気象観測を行ったことに始まる。以来120年の間、毎日かかすことなく気象観測が行われ、その全てのデータが今も残っている。測候所が設置されてから現在に至るまで同じ場所で気象観測が続くところは全国で17ヶ所。彦根の場合、測候所の周りに高い建物が建つことなく、設立当初に近い状態で観測が続いている。
現在の彦根地方気象台は、昭和7年(1932)に建設されたもので、『滋賀県の近代化遺産ー滋賀県近代化遺産(建造物等)総合調査報告書ー』(滋賀県教育委員会 平成12年)にも掲載されている立派な近代化遺産である。
文化庁の定義する近代化遺産とは「幕末から第2次世界大戦期までの間に建設され、我が国の近代化に貢献した産業・交通・土木に係る建造物」であり、120年に及ぶ気象データは遺産として扱われることはない……。

彦根地方気象台について、その歴史を少し詳しくみていくことにする。彦根に暮らす私たちは彦根地方気象台を「測候所」と無意識に呼ぶことがある。その理由も歴史を振り返れば納得することができるだろう。
明治5年(1872) 軍事・経済・運輸上の観点から近代的な気象観測網の確立を急いだ明治政府は東京気象台を設置。
明治20年(1887) 気象台測候所条例に基づき、全国51ヶ所に測候所設置を決定。
明治24年(1891)9月 内務省告示を以て彦根に設置を指定。当初、候補地として大津が上がっていたが、滋賀県のほぼ中央に位置し日本海側と太平洋側の気候が交差する彦根に測候所を設けることになる。
明治26年(1893)10月1日現在の場所に滋賀県立彦根測候所設置。気温・気圧・雨量・風速・風向の5項目の観測を開始。その後積雪・琵琶湖の水位・地震・天体等の観測が拡張され、明治42年(1909)から天気予報と暴風警報を、晩霜予報は大正11年(1922)から行われる。
昭和7年(1932)6月29日木造2階建てだった測候所の建物を新築。設計は滋賀県営繕課。
昭和14年(1939)11月1日県立から国営となり大阪管区気象台の所轄となる。
昭和32年(1957)9月1日運輸省令により彦根測候所は彦根地方気象台に昇格。
昭和7年に新築された建物は鉄筋コンクリート2階建て・塔屋4階建て、1階から塔屋まで螺旋状に上昇する階段室の意匠は建物の大きな特徴となっている。細部の意匠にも特徴があり、塔屋3階部分の窓は1920年代に流行した放物線アーチで表現主義の手法をよく伝えているという。表現主義の代表作がアインシュタインの天文観測所だったこともあり、気象台、測候所にその作風が採用されることが多かったのである。また、幾何学模様を組み合わせた装飾も数多く施され、その時代の特徴をよく示している。
建物は昭和43年(1968)、瓦を配したタイル張りだった外装を瓦を無くし全面をモルタル吹きに改装し、2階中央の2個の窓は壁を抜いて1個の大きな窓になった。

平成23年(2011)、耐震改修と増築工事が竣工した……。驚くべきは外装が昭和43年以前の姿に戻っていることである。再びタイル張りとなり、2階の1個の大きな窓は元通り2個にもどされ、各階に瓦も配されている。瓦は当時使われていたものが保管されていなかったこともあり、気象台の周りの土中を堀り、探したという。結局、瓦は出土しなかったが、建設当時の姿に戻そうという努力が為されたことは確かなことである。
ところで、物理学者であり随筆家でもある寺田寅彦は大正13年(1924)『潮音』に「伊吹山の句について」という一文を寄せている。

おりおりに 伊吹を見てや 冬ごもり

という句について、この山の地勢や気象状態などが問題になっていて、それについていろいろ立ち入った研究があったようである。私もこの問題については自分の専門の学問のほうからも特別の興味を感じたので(中略)近ごろ思い出して、急に材料を捜しにかかったが、容易に見つからず、とうとう彦根測候所に頼んで、同所の筒井百平氏から、必要な気象観測のデータを送っていただいて、それでやっと少しはまとまった事を考えるだけの資料ができた(後略)」と記している。
TVの画面に映し出される天気予報に「彦根」を見るのも嬉しいが、彦根測候所がこうした文章に登場するのは誇らしいものである。
ちなみに伊吹山の句は、芭蕉48歳(元禄4年・1691)の時、伊吹山麓の大垣藩士岡田氏の千川亭に立ち寄った時に詠んだものだが、彦根の高宮神社に何故かこの句を刻んだ句碑がある。裏面には「嘉永三庚戊年」と記されている。1850年だ。芭蕉が高宮宿を訪れたのは貞享元年(1684)のことである。可能ならば、寺田寅彦氏と共に彦根地方気象台を訪れ、「おりおりに」という語句が用いられた背景を科学的に探ってみたいものである。