滋賀県護国神社は戊辰戦争以来、西南の役、日清・日露戦争から太平洋戦争など、国事・国難に殉じた滋賀県出身の英霊、即ち郷土滋賀の守り神・近代日本の国造りの神を御祭神としている。日本には今も、死者の御霊を神として祀り崇敬の対象とする文化・伝統が受け継がれている。
戊辰戦争は歴史を画する特別な出来事のひとつであり、この戦いにおける、徳川譜代筆頭、京都守護職の家柄にあった彦根藩の判断が近代の歴史を変えたと言っても過言ではない。
安政7年(1860)、桜田門外の変で大老井伊直弼が暗殺される。混乱を恐れた幕府は「大名の不慮の死は事情の如何を問わずその家名を断絶せしめる」という法を曲げて、初代藩主直政公以来の「先手を勤めること、京都守護職の任務など、全て従前どおり」、直弼の次男直憲を彦根藩主とし、事態の収拾を図った。
文久2年(1862)、幕府内の政変である「文久改革」により、10万石の召し上げと、京都守護職の罷免を命じられる。井伊直弼が断行した安政の大獄で処罰を受けた徳川慶喜や松平慶永が政権の中枢となったことで、幕閣として直弼が行った「無勅許調印」や「安政の大獄」の政治責任を彦根藩井伊家が一身に負うことになったのだ。
彦根藩は藩主直憲のもとで、朝廷、幕府からの追及を受ける前に、藩の存続と領民の安全を図るため、幕府の意に沿うカタチで自浄努力せざるを得なかった。城代家老木俣、家老庵原を隠居謹慎とし、直弼の側役・幕府の公用人であった宇津木六之丞、長野主膳を彦根藩の手で断罪する。そして、徳川の先鋒でもなければ京都守護でもなくなった彦根藩は以後、失った領地10万石を取り戻し、誇りを回復するため、幕府の命令に従い懸命に戦うのである。文久3年(1863)の天誅組鎮圧、元治元年(1864)水戸天狗党の鎮圧、慶応2年(1866)の第2次幕長戦争においては長州(山口県)と芸州(広島県)の国境、小瀬川まで軍隊を送っている。
慶応3年(1867)、王政復古の大号令が発せられ、徳川幕府が終焉を迎えると、「直憲は藩の去就を藩士に問うた。士分の者は藩校弘道館に集まり、足軽級の者は宗安寺においてそれぞれ協議した。宗安寺の足軽級の方は極めて迅速に朝旨を奉ずることに一致したが、弘道館の士分達の間では、流石に父祖伝来の恩義を偲んで、無条件の朝命遵法には決し兼ね、中には直孝の遺訓を持ち出して反論するものさえあった」(『彦根市史下冊』)。
『彦根藩最後の藩主 井伊直憲』(彦根史談会・2001年)は「この時にあたって直憲は、徳川の恩顧に報い徳川方につくべきという意見もあったが、藩論を統一して、「大義名分に奉じる」と決したのである。思うに「大義名分とは京都守護ということである。この事は、井伊家が直政以来内命を受け、代々受け継がれ、且つ諸藩も認知して来た事であった。幕府が政権を返上した今、徳川方を離れ、大義名分に徹し、朝廷に遵う事を宣言したのは誠に尤もな事と思う」と記している。
「彦根藩が反幕府側に立ったことは、敵味方に異常な衝動を与え、官軍の戦意昂揚は言うまでもないが、去就に迷っていた他の譜代諸藩の動向を決定せしめた」のである(『彦根史市下冊』)。
戊辰戦争は慶応4年(1868)、鳥羽・伏見で戦闘の火蓋が切られたが、当時在京の彦根藩士は鳥羽・伏見の戦いには関わっていない。彦根藩の本格的な戦闘は北関東に始まる(『新修彦根市史』)。
流山宿(現千葉県流山市)で「大久保大和」を名のっていた新撰組局長近藤勇をとらえたのも彦根藩兵である。下野国(現栃木県)小山・宇都宮・日光・小佐越、二本松に転戦し、甲府城守備、北越出兵、東奥州進撃、会津若松城攻撃など「戊辰戦争に参加した彦根藩兵は、東山道出兵総人員一二七〇人(うち戦死者二九人、負傷者三三人)のほか、甲府出兵総人員四九〇人(うち二五九人は越後へ転出)、越後出兵総人員四三五人(うち二五九人は甲府から転入)であった」(『新修彦根市史』)。
明治2年(1869)、土方歳三が戦死、榎本武揚らが新政府軍に降伏し戊辰戦争は終結する。明治新政府は勝利したことで、日本を統治する政府として国際的にも認められ、天皇を中心とする近代的な国づくりに向けて歩み出す。
明治天皇は明治2年、国家のために一命を捧げた人々の名を後世に伝え、その御霊を慰めるために、東京九段に「招魂社」を創建する。この招魂社が靖国神社の前身である。彦根でも同年、大洞龍潭寺に戊辰戦争で戦死した彦根藩士を奉る招魂碑が建立され、明治8年(1875)に招魂碑を社に改造する旨の内務省令によって招魂社造営に着手、同9年(1876)5月に竣工した招魂社は、昭和14年に滋賀県護国神社と改称された。護国神社に奉られた滋賀県出身の戦没者は太平洋戦争を含め34,400余柱に及ぶ。境内に建立された「戊辰従征戦死者碑」(書は日下部鳴鶴)、「表忠臼礮記」(書は日下部鳴鶴)、「北支沖縄戦戦没勇士慰霊碑」、「戦没軍馬軍犬軍鳩慰霊之碑」、「拓魂碑(満蒙開拓移民)」「第二十号掃海艇慰霊碑」などの「戦没者追悼碑群」は、護国神社と共にまさに彦根の近代化遺産である。
護国神社は昭和22年、国家神道を禁ずる占領軍の方針のもとで沙々那美神社と改称されるが、昭和28年再び護国神社の社名に復帰。毎年8月に営まれる「みたま祭」は、郷土滋賀の平和のための礎となった護国の英霊を慰霊し、感謝の誠を捧げ奉る祭典として執り行われているのである。