カロムは四隅にポケット(穴)がある正方形の盤上で、扁平な円筒形の玉を指で弾きながら行うビリヤードに似たボードゲームである。キャロム、カランボ、カロン、康楽球(カーロンチュー)など名称やルールは少しずつ異なるが、ボードの形状や遊び方は似ていて地球上の様々な国でカロムは存在している。
日本のカロムについては、3種類の系統があることが判っている。
ひとつは、日本の登山家が日本に持ち帰り遊んだチベットやネパールなどインド亜大陸のカロムである。ポケットは円形で、彦根のカロムに馴染んでいる者にとっては、随分と小さく感じるに違いない。現在、世界選手権大会の公式ボードの基本デザインは、これらインド亜大陸のカロムボードのデザインが基本になっている。世界選手権公認ボードは、約74センチ四方で四隅に直径4.45センチの円形のポケットがある。
次に、盤面にチェックの模様が描かれているカロムである。
このカロムは商社やメーカーが海外から輸入し、日本に紹介したものだ。「美津濃」(現 美津濃株式会社)発行の大正6年(1917)のパンフレットに「ホッケット玉ハジキ」という名前で掲載されている。 実は、日本全国に普及し遊ばれたカロムとは、このチェックの模様がある系統のカロムなのである。このチェックの模様のカロム盤は、何種類かのゲームを楽しむことができる複合ゲーム盤として普及し、現在でも同じようなボードゲームがアメリカ、日本で販売されている。昭和30年代には東京のデパートで購入することができ、かつて南極観測のレクレーションにも採用されている。
ちなみに、第一次南極観測隊の副隊長兼越冬隊長の西堀榮三郎は、「雪山讃歌」を作詞した人物であり、日本山岳協会会長も務めている。南極観測のレクレーションとして採用された経緯が見えてくるのではないだろうか。
そして、彦根で100年以上遊び継がれたカロムである。登山家が持ち帰ったカロムやチェックの模様のあるカロムとはルールも盤の雰囲気も大きく異なっている。
自家製の彦根のカロム盤には、裏面に所有者や制作年月日の墨書が残っているものがある。大正から昭和初期にかけての記載が多く、現在見つかっている最も古い墨書は「大正二年」、更に「一円十銭」と購入代金も記されている。
日本では、ライフスタイルの変化と共に、カロムは徐々に姿を消していくが、彦根では正月や地蔵盆などには必ず登場し、ビー玉やメンコと同じように普段の暮らしの中で遊び継がれていった。
そして、「かつて全国で遊ばれていたゲームならば、彦根のチャンピオンは日本のチャンピオンだ」と始まったのが、「第1回カロム日本選手権大会」(1988年8月28日・社団法人彦根青年会議所主催)である。インド亜大陸のカロムであろうがチェックの模様があろうがカロムはカロムである。
彦根カロムの伝来については、ふたつの仮説があった。
ひとつはYMCAの布教活動の中で日本で数多くの西洋建築を手懸けた建築家であり、メンソレータムを広く日本に普及させた実業家ウィリアム・メレル・ヴォーリズが、レクレーションとして日本に伝えたというものだ。否定するものではないが、その可能性は薄いだろう。
ヴォーリズは、滋賀県立商業学校(現滋賀県立八幡商業高等学校)の英語科教師として、明治38年(1905)に来日している。もしもヴォーリズが紹介したとするなら、その盤はチェックの模様のカロム盤であるはずだ。
彦根カロム伝来のもうひとつの仮説は、彦根からカナダに移民した人々が伝えたというものである。
さて……、彦根のカナダ移民は明治18年(1885)に始まる。
『彦根市史』には「八坂を中心とする沿湖一帯は、現にアメリカ村と称されるほど海外殊にアメリカおよびカナダに行っている人が多い。この現象は明治十八年にはじめて見られ、それより発展して来たものであるが、その原因は明らかに同年六月発生した水害にあった。」「明治二十九年に発生した大水害はふたたび磯田村に全滅に近い損害を与えた。しかし村民には一〇年余にわたる海外出稼ぎの実績があり、禍を転じて福となすだけの気力も備わっていた。今度彼等が目をつけたのはカナダであった。」「最初は五年もすると一たん帰国する。そして家を建て、掃墓や法要を勤め、学校とか寺院・神社への寄附も怠らず、やがてふたたび渡航する。」とある。『新修彦根市史』は「磯田村八坂ないし犬上郡の人々が滋賀県カナダ移民の先駆者であったと言っても過言ではない」と記している。
彦根でカロムの製造販売を始めた中野木工所の初代中野十太郎氏は八坂の出身である。そして実は、カナダのカロム盤のルールはインド亜大陸のカロムに似ているがボートはポケットが大きく彦根のものと似ているのである。どうやら、彦根のカロム伝来は、明治の水害によりカナダへ出稼ぎにいった人々が持ち帰り、独自にルールを発展させたものであると考えるのが、妥当であるように思う。