| 1876 明治9年 |
8月8日 |
イリノイ州のデイクソンに生れる洗錬された教養の高い家柄だったが、けっして裕福ではなかった。 父は33年間デイクソン高等學校の校長を勤めあげた人物で、厳格であり誰からも深く尊敬された教育界の指導者だった。 |
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| 1892 明治26年 |
16歳、高校卒業卒業後2年程、彼は農場で働き、ともかくその經營をやってのけ、近く州立大学の農科に入学。 |
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| 1894 明治28年 |
夏 |
農場で働く計画を断念スミス氏の生涯を大きく転換させる事件がおこる。 |
| 1895 明治29年 |
リバサイド・スクールの教師となる両親はスミス氏と一緒に暮らしたいと考え、デイクソンの近くの小さい一教室だけの学校(リバサイド・スクール。スクール・バスの制度が発達した今日では、こういう不完全な学校はほとんどなくなったが、極最近まで至るところにあった)に、職を見つけた。 |
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| 1896 明治30年 |
田舎の学校へ移る給料は高くはなったが、あまり楽しいとは云えない田舎の学校へ移る。大学へ入学する計画をたて、そのために貯金するお金が必要となったからである。 |
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| 9月 |
イリノイ州立大学に入学、同時に大学YMCAに加入大学二年生の時、父親が重病にかかり、母親もまた病気だったので、家へ呼び戻され、高等學校の代理校長となった。 |
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| 1898 | 夏 |
父親永眠、農場は閉鎖スミス氏は一学期を休んだだけで、大学へ復帰。 |
| 1899 明治33年 |
春 |
YMCAの会計に選任 |
| 夏 |
YMCA 夏期キャンプに出席ゼネバ湖(北米、イリノイ州とウイスコンシン州の境にある湖)のYMCA 夏期キャンプに出席。YMCA有数の指導者となった。 |
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| 12月 |
クリスマスに母親永眠 |
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| 1900 明治34年 |
4月 |
大学YMCA会長に選任されるこの年、YMCAと連合で種々の会合が持たれたが当時のYWCAの会長は他ならぬインネッド・ドレーパー嬢であり、スミス氏は未来の妻とめぐり合ったのである。 |
| 夏 |
決意表明ゼネバ湖に於ける第2回YMCAの夏期キャンプで、海外伝導事業に生涯を捧げると云う固い決心を表明。 |
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| 1901 明治35年 |
6月 | 大学卒業 |
| 9月 |
大学教授となるイリノイ大学教授陣に加わり、数学の教師として、100〜120人の一年生に代数・三角・解析等を教えた。 |
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| 1902 明治36年 |
2月2日 |
インネッド・ドレーパー嬢と正式に婚約彼女は1902年の6月来日。 |
| 秋 |
「リバサイド農場」売却大学の学費のためになされた借金を返済。 |
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| 1903 明治37年 |
2月27日 |
28歳、イリノイ大学の地位を棄て日本へ向って出帆信濃丸で横浜に到着。 |
| 4月10日 | 広島高等師範学校へ英語教授として赴任 |
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| 10月20日 |
横浜でインネッド・ドレーパー嬢と結婚スミス氏は広島高等師範学校の英語教師として、学生が最も必要としていることは何であるかを見出そうとし、またその必要を満たすために最善の努力を傾けた。雑誌「英語教師の友」を発行、これは官公立学校その他学校の英語教師のための雑誌であった。 |
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| 1908 明治41年 |
12月 |
第1回の休暇帰国してイリノイ大學で研究を続ける。 |
| 1909 明治42年 |
9月 |
広島へ帰ってくるスミス夫人も附屬中学で英語を教える始める。 |
| 1911 明治44年 |
4月10日 |
東京築地教會の禮拜に出席在日アメリカ聖公會ミッションに加わることを決心。 |
| 1912 大正元年 |
4月1日 | 在日アメリカ・ミッションの京都教區の一員となる |
| 4月 | 三重県津市に赴任 |
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| 1913 大正2年 |
教會附屬の夜學校の責任者となり、夫人は幼稚園の園長となる福井・金沢・京都などで布教活動 以上、「書籍スミス先生の思い出」より抜粋 スミスさんの傳記 ミセス・インネッド・スミス |
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| 1925 昭和元年 |
彦根高商英語教師を務めながら布教活動や文化活動に従事 |
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| 1931 昭和6年 |
両親の慰霊のため、キリスト教の普遍的精神と彦根の風土と日本の精神を調和させた礼拝堂の建築を祈願日米の多くの善意に支えられ実行に移した。 |
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| 1939 昭和14年 |
健康悪化のためアメリカへ帰国 |
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| 1945 昭和20年 |
オハイオ州で死去彦根を愛したスミス氏の遺骨と遺髪は彦根の教会に納められている。 |