Modern Heritage 近代化遺産

近代化遺産とは?

2003年スミス会議では、「近代化遺産マップ」作成に取り組みました。 近代化遺産マップは、彦根における近代化遺産の価値を理解し、スミス記念堂再築の意義を再確認するため、また、彦根の歴史教育や観光の一助にと例会やセミナーを通して勉強してきた成果でもあります。

ところで近代化遺産とは何か…?

筒井理事長の定義では、 『日本の近代化にかかわる歴史的建造物や遺跡など』、銅像や顕彰碑も含まれる。 つまり、『明治から始まる政治・経済・社会・教育・思想・文化・宗教といったさまざまな領域で推し進められた近代化事業の特徴を今によく伝えている』地域に残るモノということになります。

スミス記念堂も近代化遺産のひとつだったのです……と残念ながら、今は過去形でしか語ることしかできませんが、近い将来、NPO法人スミス会議の運動のひとつの結果として、近代化遺産スミス記念堂の再建を実現したいものです。
ちなみに、産業にかかわる道具、例えば、バルブや繊維工業に関する道具、近江鉄道が維持管理するED系電気機関車などもまた近代化遺産です(近代化遺産マップ参照)。

近代化遺産を見ること、学ぶことは、地域の発展の歴史を理解することにつながります。そして、過去・現在・未来の人達の情報の共有に必要なモノであると同時に「活用が可能」である点が「文化遺産」とは異なっています。

近代化遺産認定の歴史

1990年近代化遺産総合調査開始(国・文化庁)
1992年滋賀県「近代和風建築」調査を実施(国庫補助事業=日本初)
1993年近代化遺産が国の重要文化財に指定開始
碓井峠煉瓦造りに鉄道アーチ(群馬)、藤倉水道施設(秋田)を重要文化財に指定
文化庁の調査に刺激された土木学会が近代土木遺産の全国調査開始
1995年原爆ドームが国の史跡に指定され、文化財行政の転換点となる
読書発電所施設(長野県)が指定登録
1996年文化財保護法が改正、「登録文化財制度」が導入
また重要文化財の定義に「土木構築物」が明文化
1998年「地域資産としての近代土木遺産」シンポジウム開催(土木学会)
(従来研究者だけの参加だったが、コンサルタントやゼネコン関係者が出席)
滋賀県「近代化遺産調査総合調査」を実施(国庫補助事業)
1999年日本橋(東京)が道路里程標の原点として登録
2000年滋賀県「近代化遺産調査総合調査」報告書完成

彦根の近代化遺産

スミス記念堂

昭和6年、アメリカ人牧師(日本聖公会彦根聖愛教会)であり彦根高等商業学校(現滋賀大学経済学部)の英語教師だったパーシーA・スミス氏が、両親への祈念と日米両国の交流を願い、彦根の宮大工、宮川庄助氏と協力して建てた和風礼拝堂。
彦根城の意匠を取り入れた寺院風の外観と、十字架やブドウ、ハトなどキリスト教ゆかりの文様や松竹梅など純和風の文様などが施されている。昭和初期の和風礼拝堂は全国的にも珍しく建築史的にも稀有。
記念堂は平成8年、道路の拡幅工事により取り壊しの運命にあったが、市民の保存活動により解体保存され、平成19年(2007年)3月再築竣工。美しい姿を蘇らせた。
解体・再築費用は全て善意の募金により賄われ、現在も募金は続いている。
彦根市本町3丁目

井伊直弼銅像

金亀公園に井伊直弼の銅像が佇んでいる。直弼の銅像は、その遺徳を顕彰しようとする旧彦根藩士達によって、一つは横浜紅葉坂の掃部山公園に、今ひとつは彦根の尾末町に、開港50周年を記念して、明治42年・43年に相次いで建立された。その後両者とも太平洋戦争下に金属供出され、戦後開港100年を記念して再建された。
彦根市金亀町3番 (金亀児童公園内)

井伊直弼供養塔

井伊家ゆかりの天寧寺に直弼の供養塔がある。直弼が万延元年3月3日に桜田門外で暗殺されたあと、亡骸は井伊家の菩提寺である東京世田谷豪徳寺に葬られたが、その遺品は四斗樽に詰められ血染めの土とともに彦根に運ばれ、父直中が建立した天寧寺に埋設された。その上には宝篋印塔が建てられて直弼の菩提が弔らわれた。
彦根市里根町232番地 (天寧寺内)

義言地蔵尊

城町郵便局の前に義言地蔵尊がひっそり佇んでいる。ここに祀られた長野主膳義言は井伊直弼の腹心として幕末政治に活躍するが、直弼亡き後は、藩論も尊皇攘夷に転換するなか、直弼派の頭目として四十九町の牢屋前で斬首された。その後主膳の霊を鎮めるべく、彼を偲ぶ者達によって斬首跡地に地蔵尊が祀られた。
彦根市城町1丁目7番1号

長野主膳墓碑(並びに歌碑)・村山たか女碑

< p> 直弼の腹心長野主膳は斬首後も遺骸打捨にされたが、その後弟子達の手で天寧寺の直弼供養塔の近くに葬られ、傍らには主膳の小さな歌碑が添えられた。戦後、昭和38年NHK「花の生涯」の放映によって再び直弼が脚光を浴びると、直弼を衷心より支えた主膳と、両人より深い寵愛を受けた村山たか女の碑が同所に建立された。
彦根市里根町232番地 (天寧寺内)

井伊直憲の埋髪塚

井伊直弼の後継で彦根藩最後の藩主井伊直憲の埋髪塚はかつて城内にあったが、明治35年旧佐和山神社参道脇に移され、さらに平成15年井伊神社参道の登り口に移設された。全長5mのこの塔を仰ぎ見て、弱冠13才で藩主となり、勤王倒幕に至る藩論の統一、維新後の彦根の発展に尽くした直憲の功績が改めて偲ばれる。
彦根市古沢町1112番地 (井伊神社内)

大東義徹顕彰碑(日下部鳴鶴書)

天寧寺に明治38年建立、日下部鳴鶴の篆額・撰文・書になる大東義徹の顕彰碑がある。日下部鳴鶴は、維新後明治政府の大久保利通に仕えるが、大久保暗殺後は政界を去り近代書道の確立者として大成する。大東は戊辰戦争で活躍し、集義社設立、民選議院設立に尽力、衆議院議員を経て司法大臣に就任し、近江鉄道初代社長も務めた。なおほかに日下部鳴鶴の手になる「外村半雲先生之碑」が井伊神社前に、「山本聖興君之碑」が長久寺境内に、「芹坡先生碑」が龍潭寺参道右側にそれぞれ残されている。
彦根市里根町232番地 (天寧寺内)

和光会館(取り壊し)

城町の堀端に佇むこの建物は吉原定吉が昭和2年に竣工したが、その後近江絹糸(株)の所有に移ってからは、迎賓館的施設として利用されてきた。良質の檜材等をふんだんに使った書院造りの主屋と広間からなり、数寄屋造りの離れの間や築山・枯池・名石・低木を配した庭も含め、建築的価値の高い貴重な近代和風建築といえる。
彦根市城町1丁目1番75号

鐘紡彦根工場群(取り壊し)

昭和5年、琵琶湖畔に大手の大規模工場が進出する魁として長曽根の地に鐘紡の工場群が建設された。精紡工場からスタートし、昭和12年に紡績部門を併設、戦後はアクリル生産に転換した。整経室・紡績・ボイラー・倉庫等の生産部門から事務所、医院、寄宿舎まで工場諸施設がほぼ当時のまま残されている点で貴重である。
彦根市長曽根町5番1号

犬上ダム

犬上ダムは、犬上川周辺農村でたびたび起こる水争いを防止し、また昭和5年からの大恐慌打開のための県営救農土木事業として昭和9年に起工され、難航する土地買収や補償、戦時期の諸困難等を乗越えて、昭和21年3月に完成した。日本最初の農業用のコンクリートダムであり、当時農業用ダムとして全国一を誇った貴重な近代化遺産である。
犬上郡多賀町大字萱原

門野留吉翁頌徳碑

彦根バルブ創業者の一人門野留吉の頌徳碑が、旧職人達の居住地域にある本町の明性寺に佇んでいる。明治初期仏具の錺金職人であった留吉は、その技術を近代製糸業のカランやバルブコック製作に転用し、また多くの弟子を育てて彦根バルブ業の生成発展に尽くした。この碑は弟子達がその功績を称えて昭和16年に建立したもの。
彦根市本町3丁目3番56号 (明性寺内)

近江鉄道本社「辛苦之経営」の碑

近江鉄道は、西村捨三や大東義徹ら明治維新に尽力した旧彦根藩士と小林吟右衛門ら著名な近江商人が協力して、明治29年設立された。しかし開通後の利用貨客は伸び悩み、巨額の設備費を社債の発行、銀行借入等でしのいだ。この碑は、取締役を務めた西村が、明治38年退社に当り、鉄道経営の苦難を感慨を込めて認めたもの。
彦根市安清町11番12号

近江鉄道電気機関車群

大正期近江鉄道の経営は安定し、電化時代を迎える。彦根駅に隣接する車庫には、大正15年~昭和5年製の電気機関車4種11輌がなお稼動可能な状態で保管されている。これらはイギリス製または芝浦製作所製で、昭和20~40年代に国鉄や私鉄から譲渡されたもので、他の工作機械等とともに鉄道史上極めて貴重なものである。
彦根市古沢町40番地 (彦根駅構内) 見学可 TEL: 0749-22-3303

近江鉄道鳥居本駅

近江鉄道鳥居本駅舎は、地元の宿願が実って彦根-米原間が開通した昭和6年に建てられた。内部の待合室は白漆喰で内壁を塗り、天井は小屋組である。切妻創りの車寄せに施された装飾的なスティックワーク、入口上部と両側面の半円形アーチ窓、山小屋風腰折れ屋根など、優れた意匠性に富んだこの建物は、建築的重要性が高い。
彦根市鳥居本町658番地

京橋

朝鮮人街道が彦根城に到達し、城内に至ろうとする旧中堀に架橋されている京橋は、昭和9年、コンクリート製に建て替えられた。木橋としてのデザインを活かして、親柱・中柱に擬宝珠をつけ、和風の高欄を持っている。城下町彦根のランドマークとして、また昭和初期のコンクリート製和風橋として貴重である。
彦根市本町2丁目1番1号地先

長曽根港(旧彦根港)波止

長曽根港は明治17年、地元の醵金をもって築港され、大正末年に近代的な改修をとげた松原港に取って代わられるまで、太湖汽船会社の蒸気船等が大津・長浜・多景島等を往来し、多くの人員物資を運搬した。だが風波が強く埋積した砂石の浚渫工事や波止設置工事がたびたび行われ、その苦労の跡を、今も残る波止が物語っている。
彦根市長曽根町10番32号地先

宇水理髪館

花しょうぶ通りで3代続く理髪店の店舗と住居として、昭和11年に新築された。間口は5mに満たないが、バリカンと櫛をかたどった軒飾りや2階の大アーチによって強い存在感を発揮する。店舗内部も当初の姿をよく残し、特にベルギー製の鏡とガラスの棚、床のモザイクタイルはデザインとしてすぐれているだけでなく、戦前期の理髪店の様子を伝えるものとして貴重である。
彦根市河原3丁目2番23号

滋賀銀行彦根支店(旧百三十三銀行本店)

銀座街の中央に滋賀銀行彦根支店がどっしりと構えている。その前身は、明治12年に開業した第百三十三国立銀行で、彦根製糸場や近江鉄道の発展を資金面で支えてきた。この建物は大正14年に竣工、耐震耐火に優れたコンクリート3階建で、簡素な装飾性を備えた近代建築様式のはしりとして、建築的価値がある。
彦根市銀座町3番10号

彦根信用金庫銀座支店(旧明治銀行彦根支店)

川原町「久左の辻」の三左路に面して、彦根信用金庫銀座支店がある。大正7年、旧明治銀行彦根支店として竣工し、様々に転用された後、昭和33年に現在の所有となった。道路角口に出入口を切り、屋根には三つの千鳥破風を配して一つは腰折屋根にするという交差点の立地性を生かした斬新なデザインが秀逸な建築である。
彦根市河原1丁目1番26号

俳遊館(旧彦根信用組合本店)

現彦根信用金庫の前身たる彦根信用組合は大正3年に設立され、この建物はその本店として大正13年に竣工した。昭和41年に現在地に移転し、平成8年から俳遊館として利用されている。カラーベスト葺の木造2階建て寄棟造で、全体に装飾性を抑えつつも窓枠等に曲面を取り入れるなどアール・デコ風の建築意匠も感じさせる。
彦根市本町1丁目3番24号

旧第百三十三銀行彦根西支店(現瀬戸製茶)

明治12年国立百三十三銀行が彦根に開設され、大正13年8月に西支店が大字四拾九67番の2に設置された。その後昭和34年10月に西支店は、より北の交差点に面した瀬戸製茶店と土地を交換して新設された。現瀬戸製茶店には店内の合天井、外の窓飾りや屋根上の鬼瓦にある百三十三銀行のマークなどが、引継いだ旧西支店の面影を偲ばせている。
彦根市城町2丁目3番7号

旧本町郵便局舎

本町郵便局は明治14年に開局した、彦根市で最初の郵便局。現在の局舎の北隣に大正期に建てられた2代目の建物が残る。外観は大正期に流行したセセッションの造形を巧みに用いる。タイル張りの仕上げも当時は斬新な手法だったはず。室内意匠も充実しており、また保存状態もよく、古き良き特定郵便局の様子を伝える。
彦根市本町1丁目3番36号(立入不可)

旧川原町郵便局舎

大正期に建造されたもので、タイル張りの平滑な壁面や幾何学的な装飾に時代の特徴がよく伺える。幅約6.5mのファサードの中に多彩な要素をちりばめ、それでいて格調を失わない。内部は1階前面の営業室だけが洋風で、他の部屋は和風となる。伝統的な町家の中に洋風意匠が拡がっていく過程を示すものとして貴重である。
彦根市河原2丁目3番4号(立入不可)

金亀会館(旧彦根藩校弘道館)

彦根藩は1799年に学館稽古館を創立、1830年に弘道館と改称する。当初は内曲輪の中にあった。明治維新後、講堂は中央町に移築され、浄土真宗本願寺派の施設金亀会館として活用されている。現状は、間口約13.4m、奥行き約13.9mの大広間の背面に仏壇を設け、また大小4室から成る座敷棟を並置する。77畳敷きの大空間は藩校の威儀をしのばせる。
彦根市中央町3番46号(立入不可)

滋賀大学経済学部講堂(旧彦根高等商業学校講堂)

彦根高等商業学校は、大正12年に開校し、講堂は翌年竣工した。木造2階建て、講堂と大教室とからなり、内部には重厚な中央ステージと2階三方にギャラリーが広がる。外部は正面に三角形の妻面、八幡瓦の屋根には換気用ドームの小塔と3個の半円形喚起窓が並んでいる。高等専門学校の講堂の典型的建築例として貴重である(平成12年11月「登録文化財」指定)。
彦根市馬場1丁目1番1号

陵水会館

陵水会館は、昭和13年彦根高等商業学校の同窓会館として、高商の学生が「集団勤行」で埋め立てた壕の上に建設された。左右対称の木造2階建で中央にヴェランダを配し、壁は波打つクリーム色のドイツ壁、屋根はスペイン瓦葺き、玄関には泰山タイルを張ったスパニッシュ様式でまとめられた、ヴォーリーズ建築の傑作の一つ(平成12年「登録文化財」指定)。
彦根市馬場1丁目1番1号

旧彦根高等商業学校外国人宿舎(ひこね市民活動センター)

滋賀大学講堂から内堀方面に歩いていくと瀟洒な洋館が目に留まる。これもヴォ-リーズ建築事務所の手になる建物で、高商の外国人教師の宿舎として利用された。2階にバスルームを、1階には暖炉も備えた典型的な個人用洋館住宅として価値があり、市民から保存活用を求める声があがり現在は,市民活動の場として利用されている。
彦根市金亀町7番4号

彦根地方気象台

明治26年彦根に設置された県立彦根測候所は、昭和7年鉄筋コンクリート2階建て・塔屋4階建ての現在の建物に改築され、同15年国立となり、32年に地方気象台に昇格した。1階から塔屋まで螺旋状に上る階段、さらに半円アーチの窓、玄関扉や、門柱等には様々な時代的様式の装飾が施されており、貴重な建築である。
彦根市城町2丁目5番25号

護国神社並びに戦没者追悼碑群

明治9年尾末町に建立された招魂社は、昭和14年護国神社と改称され、17~18年に伊勢神宮の構造や意匠に倣って本殿・拝殿の増改築が行われた。明治維新以降国家ために戦死した本県出身の御霊3万4400柱が奉られ、中国・沖縄戦線や満州移民、シベリヤ抑留等で命を落とした兵士・国民・動植物の御霊を慰める数々の石碑が建てられている。
彦根市尾末町1番59号

彦根東高等学校作法室(陸軍大演習大本営大正天皇御座所)

大正6年11月から約1ヶ月、湖東平野において兵員4万人以上を擁して陸軍特別大演習が行われ、彦根中学高に大本営が置かれ大正天皇の御座所が設けられた。当時建設中の博物室等が改築され、玉座のある御正殿には床の間、シャンデリア、襖引き手の菊の紋章等が施され、ほかに伺候の間・御寝間・御湯殿・厠等も設けられた。
彦根市金亀町4番1号(館内立入不可 )

誓の御柱

大正14年8月、琵琶湖多景島に、23mの巨大な青銅製の尖塔が建設された。五ヶ条の誓文が彫りこまれ「誓の御柱」と命名されたこの塔は、その精神で国民を統合しようという滋賀県警察部長水上七郎の主唱で、70万余人からの醵金と皇室からの下賜金も賜って建設され、その後は教育機関等にレプリカが頒布されてその精神の普及が図られた。
彦根市八坂町2155番地 (琵琶湖・多景島)